藤圭子・若い頃から美人「新宿の女」でデビュー、生い立ちは?旦那は前川清、結婚離婚は?兄もデビュー?

女性歌手

こんにちは、タムジーです。

今回は宇多田ヒカルさんの母、藤圭子(ふじけいこ)さんについてご紹介します。

伝説の歌姫として知られ、デビューシングル「新宿の女」が大ヒット。

また、若い頃から日本人形の様な超美人で人気でした。

そんな藤圭子さんの生い立ち、若い頃から結婚、離婚されるまでをご紹介します。

是非、お付き合いくださいね。



藤圭子・生い立ち(プロフィール)は?幼い頃からの生活は?

先ずはプロフィールからご紹介します。

プロフィール:
生年月日・1951年7月5日
出生名・阿部 純子
本名・宇多田 純子
出生地・岩手県一関市
出身地・北海道旭川市
死没・2013年8月22日(62歳没)

藤圭子さんは、浪曲師のご両親から生まれ、兄と姉がいます。

父が歌い母は三味線を弾きながら家族で各地方を巡業、幼い頃からいわゆるドサ回りの生活を送っていました。旅の生活では、藤圭子さん自身も歌っていました。

雪の中を長時間歩き、泊まる所がないと農家に頼み込み、納屋のなかで寝たりお寺や地蔵堂の軒先が床下の生活。その日食べる事もままならない生活を送っていたそうです。

夏場ならまだいいが、厳しい冬の中流れ歩いた一家を想像すると、胸がいたみます。

北海道の岩見沢市立栄中学校を卒業され、成績もトップクラスでしたが、生活の貧しさから高校進学を諦めました。

生活を支えるために歌手を目指した藤圭子さんは、15歳の時に岩見沢で行われた、雪祭り歌謡大会のステージで歌うと作曲家の八洲秀章さんの目に留まり上京されています。




藤圭子・代表曲「圭子の夢は夜ひらく」・シングル、アルバム「新宿の女」「女のブルース」も大ヒット!

両親と共に上京すると、西日暮里の六畳一間のアパートに家族で暮らし始めました。

八洲秀章さんのレッスンを受け、レコード会社のオーディションを受けましたが、全て落選してしまいます。

生活のために東京・浅草、錦糸町の街などで母を連れ、兄とも流しをはじめ日銭を得ていました。そんな生活の中、作詞家の石坂まさをさんと知り合い、石坂まさをさんの自宅に住み込みレッスンを受ける様になりました。

これがきっかけとなり、一気にスターへと上り詰めます!

後の1969年9月25日、シングル「新宿の女」でデビューを果たされています。売り上げも37.4万枚の大ヒット。

1970年2月5日、セカンドシングル「女のブルース」では、74.8万枚も売り上げ1位を獲得。

アルバムでは、1970年3月5日、ファーストアルバム「新宿の女」も20週連続1位を記録しています。同年7月5日、セカンドアルバム「女のブルース」では、17週連続1位を記録されています。

そして藤圭子さんの代表曲「圭子の夢は夜ひらく」は、76.5万枚を売り上げ、瞬く間にチャートを駆け上がっていきました。

色白で小柄な17歳の美少女は、ドスの利いたハスキーボイスで暗い人生を歌い一世を風靡しました。

美人で綺麗な風貌と、歌い方のギャップが人気が出た要因の1つでしょうね。

また代表曲「圭子の夢は夜ひらく」は、多くの歌手にカバーされています。

中森明菜さんもカバーされ「ムード歌謡 〜歌姫昭和名曲集」の4曲目「夢は夜ひらく」で収められています。




藤圭子・兄は?51年ぶりに再デビュー?

藤圭子さんには兄がおり、彼女がデビューした翌年、どうしても歌手になりたいと石坂まさをさんを訪ねました。

1970年、芸名を「藤三郎」と名付け「男あっての女です」でデビューされています。

しかし、レコードを3枚出したものの売れずに翌年に引退しています。

その後は、浅草でクラブなどを経営、現在は浅草の初音小路で妻が飲み屋「松よし」を営み、三郎さんも客から請われてギターを抱える。

引用:産経デジタル

浅草は妹の藤圭子さんとかつて、飲み屋で歌う「流し」をして生き抜いた思い出の場所。

そこへ作詞家・音楽プロデューサーである千賀泰洋(せんが・たいよう)さんが偶然訪れ、実に51年の期間を得て再デビューのきっかけになり、2022年2月23日77歳で「浅草の夜」でCDデビューされました。

2022年3月8日には、南千住の映画喫茶「泪橋ホール」で発売記念ライブもおこなわれました。

天国にいる妹の藤圭子さんに聞かせたいと話しています。




藤圭子・ 旦那は前川清、結婚の馴れ初めは?

前川清さんとは、最初は同じレコード会社だったことや、レコーディングなどですれ違いざまに挨拶をしていた程度の付き合いでした。

1970年の「橋幸夫ショー」の前座を務めていた藤圭子さんに、前川さんが花輪を贈ったことがきっかけになり交際へ発展していきました。

藤圭子さんの恩師、作詞家の石坂まさをさんは、まだ未成年だった彼女を心配し、「なぜ花輪を贈ったのか」と前川清さんに尋ねると、以前前座をしたときに花輪もなく、寂しい思いをした経験から藤圭子さんも同じ気持ちではないかと思い、花輪を渡したと回答されています。

その後石坂まさをさんは、その答えに感激し、前川さんを藤圭子さんが住み込んでいる自宅に招待しその後交際が始まりました。

前川さんは、「内山田洋とクールファイブ」のメンバーで当時を賑わした人気グループのメインボーカルです。

隠れて会ったりするのはなんだか嫌だね、と。だったら、一緒になった方がいいかもねっていうのが結婚に至った理由でした

引用:NEWSポストセブン

1971年6月婚約発表の記者会見が行われ、その写真が紙面を飾りました。1971年8月2日前川清さんの故郷、佐世保市の教会で結婚式を挙げた。

藤圭子さん純白のウエディングドレスの姿は、とても綺麗でしたね、ヘッドドレスもとても似合っていました。


藤圭子・前川清と離婚の原因は?

共に人気歌手だった2人は、あまりの忙しさから、すれ違いが多く一緒にいた時でも藤圭子さんは、そっけない態度を見せていました。

幸せな表情を見せた結婚式でしたが、1年後の1972年に離婚となりました。

1972年8月12日に行われた離婚会見では、その理由を聞かれても「ありません」と言うばかりで、何とも掴みどころがない回答。

後に前川清さんは、好きでしたがどうしても夫婦になりたいと言うわけでもなかったと言う。

又次の様にも語っています。

ハワイでの新婚旅行中、都内に戻っての披露宴もずっとマスコミのかたがたが付きっきり。ハッキリいって、結婚式自体が仕事でしたね、振り返れば、結婚生活自体、実態のないものだった、と前川は語る。

引用:NEWSポストセブン

以上藤圭子さんの若い頃から前川さんと離婚するまでをご紹介しました。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。


 

 

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